取材の余波

取材を受けた記事はマラソン当日の朝刊に載り、ちらっと見て5:30には出発。

やっぱり新聞の力はすごかった!
スタートラインに立つ前にすでに何人かからメールをもらった。

そのうちの一人は看護学校の時からの親友。看護師として就職したてのしんどい時を一緒に過ごした仲間。熱い気持ちと優しい心を持った彼女にずっと刺激を受けてた。今は仕事を辞めて3人の子育てしてるのもあって、会っても年1回くらいと互いの誕生日にメッセージを送るくらい。だから最近の病気のことは伝えてなかった。
記事を見て、いてもたってもいられなくなり、用事があるにもかかわらず、ゴールまで駆けつけてくれた。結局会えなかったけど、変わらない絆を感じて嬉しかった。

また一人は肝転移をする前のリンパ節転移をした時にSNSを通じて知りあった人。悪性腫瘍と初めて認識しそれなりのショックを受けていた。今と同じで周りとの差に孤独を感じ、同じ思いをしてる人に出会いたくて、コミュニティーを通してメッセージを送ったのが始まりだった。あれから5~6年、時々互いの近況をメールするくらいだけど、励みになってた。リアルに会ったことはないけど、すぐにわかったみたい。


記事はこんなふうにプラスに影響をするものもあれば、一方ですぐには素直に受け止められないものも正直あったりもした。

翌日から入院した病棟や同僚のグループラインで話題になってたり…。
ただみんな頑張ってる姿を喜んで応援してくれてるだけなのに、「胸を張って堂々と生きていけるほどほんとはまだ強くない」と思ったりなんかして、なんだか落ち込んだ。

そして、取材を受けたことを言ってなかった親の耳に入るのもあっという間だった。入院した昼(記事翌日)には電話がかかってきて、一言目から「あんた~」って。
何にも言わなかったうちも悪かったけどほんまに怖かった!
実家の近所では新聞持って、色んな人に言ってまわる人もいたりで、母としては悲しかったみたい。
それでも「あんたがいいと思ってしたことならそれでいい」って、それ以上は何も言わなかった。
「家に帰りにくくなったかなぁ」って言ったら、「そんなん気にせんといつでも帰ってきたらいい」って言ってくれて、やっぱり母は強いなぁって。

近所じゃなくても、職場でも「こんなん大丈夫なん?」って新聞を見せてる人がいたという話も聞いたり…。

まぁ、そんなんに傷つくわけではなく、かえってちょっと腹が立ったりして開き直れた。


影響はほんとに様々。


同じような境遇におかれた人達にチカラを与えることもきっとできたはず。

うちを知ってる人の中には、喜んでくれる人もエールを送ってくれる人も頑張ってると認めてくれる人もいた。

そして、2人に1人がガンになる時代であっても、やっぱりまだまだオープンにして生きていきやすい社会じゃないんだと感じたのも本音。
別に面白おかしくというわけじゃないだろうけど、噂話をする人もいて、なった人にしかわからない苦悩があるとも思った。
まだまだガンってレッテルは仕事や子育てなどとの両立をしにくくさせてる社会なんだと。


こんだけ時間が経ってようやくふっきれて、取材を受けて記事になったこと良かったと思える。
やつと向き合い、改めて考える時間になったし、色んな影響を肌で感じることもできた。
これで何かが変わるのかはわからない。でも、やっぱり何か変えたいとも思う。微力ながら、自分のできること探したいって思った。

実はあの朝、新聞ちらっとと見て以来、ずっと見れなかった。こっぱずかしいのもあるけど、色んなこと直視することができなくて。
そろそろ、ちゃんと見てみようかな。
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大阪マラソンでのご縁《取材》

大阪マラソンの1ヶ月ほど前、読売新聞の記者さんから取材の依頼を受けた。

エントリーの時に書いた動機
《NETという希少がんと向き合って9年目。病状が進むなか、前を向いたり、後ろ向いたりと毎日葛藤の日々。マラソンはそんな自分を支えてくれたもの。
去年はフルマラソン完走したけれど、抗がん剤治療が始まる今年はチャレンジランに参加してみんなからパワーをもらって、みんなにパワーを与えたい。》
がきっかけだった。

人生の転機でもあった2013年1月の肝転移、あとどれくらい生きられるのか、どう生きていったらよいのか、シビアに受け止めてるつもりでいたけど、自分を見失いそうな時もあった。
そんな時、たまたま身近にあったのがマラソン。マラソンはちゃんと前を向けてると思わせてくれるもので、感情を素直に表現できるものだった。
病状が進む中、マラソンを続けることは、まだ大丈夫って自分に言い聞かせることができた。たまたま出会ったマラソンがどこかで支えになってた。

まあまあ若くでガンになり、再発を繰り返す中、向き合って生きていくことの難しさ、仕事や人間関係での葛藤は時間が経っても解消されることはなく増す一方。同じ悩みを持つ人と共感できたり、つながりを感じられて、どこかで誰かの力になれ、自分の力に変えられればという思いはあった。

だけど取材は名前も写真も出るということで、なかなか決断ができなかった。
今まで、周りに触れられないようにずっとひた隠してきて、その姿勢は今も変わらない。

決断できないことはやめとけってことだと思って、一度はお断りのつもりで連絡をした。
なのに、結果は受けることにしてた。
もちろん記者さんの後悔はさせない記事を書きたいという思いも十分伝わったから。


そして、

まっすぐちゃんと生きれてる?

あの時から何度も何度も自分に問いかけてきた言葉。そしてきっとこれからもずっと。

器用でなくとも、まっすぐではありたい。

自分自身がガンであることを認められず、どこか窮屈に影を持ってしか生きていけないと感じてた。
あの時から立ち止まったまま進んでないんじゃないか。

ずっと乗り越えられずにいる壁があると感じていたからかもしれない。

欲しかったのは、後押しだったんだと思う。

たかが取材。されど取材だった。

罪悪感

こないだ母から電話があった。
兄に札幌への転勤話がでているそう。
辞令がでたら、行かなきゃいけないけど、
遠方でもあるので、

年老いてきた両親をおいていくこと、特に父は介護が必要になり始めてるので、母一人に任せること
と、
妹(うち)の病気のことが気になると話してたらしい。
(こう書くと、めっちゃいい人に思えるけど、今まで多大なる迷惑をかけてきた…)

そして母も「あんたの病気のことはずっと頭から離れへん」と。兄には転勤はしてほしくないと漏らす。

そんな風に言われても返す言葉がない…。

常に心配をかけてることはもちろん申し訳なく感じるけど、
そう話を持ちかけられても、すでに肝臓へまた転移してること、近々治療開始を考えてること、言えなかった。

言わなきゃと心の中では何回も思った。けど、結局言葉にでてくることはなかった。
またタイミング逃した。

なんでやろなぁ。
やっぱ、成長過程で愛情表現の仕方が欠落してるんかなぁ。
悲しい思いはさせたくない、ある程度自分で気持ちも進むべき道も決着つけてからと思いもあるけど、
自分のことを他人にさらけ出すことができないんよね。家族ですら。
どこか歪んでると感じる。

そして、カミングアウトする時には、仕方ないやろ、もうそうするしかないんやから、っと言い放ってしまう…。

これもこれで悲しい思いをさせるんやろな。

あーあ。
今週はCT、来月初めにはMRI。
刻々と猶予は過ぎてゆく…。


自宅療養③

2006年にNETと診断されて、手術を繰り返し、3度目の自宅療養。
自宅療養中は時間があるから特に色々考えてしまう。
今から振り返っても、心が病んでたなって思う。

今回の入院で、
多発肝転移をどう受けとめ、これからどう生きていくのか、いつかの再発や死についても考えていかないといけないと思った。

冷静に受けとめてるつもりでいたけど、そんな思いがどこかで重圧になってたんだと思う。

看護師として働く中、たくさんの癌患者さんやご家族さんと接し、多くの最期にも関わってきた。
患者さんには苦痛緩和を中心に穏やかな最期を迎えられるよう、ご家族さんには
大切な家族を失う現実を受けとめられるようにと思って日々ケアを行っている。

治療効果が得られなくなったとき、治療ができなくなるとき、そして、死期が近づいているときなど、患者さんやご家族さんにはその時々でたくさんの葛藤がある。
希望や目標を持ちながらも、現実を受け入れてってもらうために、どう関わりを持つか悩むことも多い。

そんな経験が、自分の最期についてもどうあるべきかを考える。

今後どういう経過をたどるかや、厳しくなってきた状況を察知できる力はそこそこあると思うし、長い付き合いになってきた主治医もすべて話してくれると思う。
だから、そういう時がきたら、じたばたせずに、ちゃんと受けとめなきゃいけないって思ってた。
そして、残される家族の悲しみも最小限であってほしいと願うのも確か。家族にもちゃんと自分の死を受けとめてほしいと求めてしまう。

看護師であることで、先々まで考えてしまうところがあったり、どこかに弱音が吐きづらかったり、優等生の患者を演じてしまってるとこもある。

だけど、やっぱり看護師と患者の二足の草鞋、器用に履きこなすのは難しい。

こうあるべきと求める自分と今の自分、いろんな思いが錯綜し、行き場を失って、半日くらい泣き続ける日があった。
それは、ちょうど関西で行われた患者会に参加した翌日。
退院して、まだ2、3日しか経ってなくて、ちょっと無理して参加。
同じ病気を持つ仲間と知り合えたこと、そして、そのなかには、同世代くらいの仲間がいたことは、とても心強く感じたのも確かだったけど、自分の病状を口にして話すことは、病気と向き合うことになる。

それが、身体的にも精神的にもバランスがとれてない時には負担になったのか、感情のコントロールができなくなった。
病気になってから、親には極力心配をかけたくないから、感情を表に出すことははあんまりなかったけど、止めれない涙はどうすることもできなかった。
ほんとに病んでたなと。

はじめてリエゾン(心療内科)とか必要になるんじゃないかと感じた。
こんなんでは、仕事復帰もできないと思い詰めた。

多くの癌患者さんがたくさんの思いや葛藤、不安を抱えてる。
リエゾンなどの専門医に話を聞いてもらうことは治療をしていく上でも大切なサポートとなっているのも、理解してるつもり。
今回、そこにも助けを求めることはなかったけど、いつか、またこんな日が来たら、その時は…とも思う。
仕事への復帰を遅らすことは可能だったと思うけど、復帰を遅らす選択はさらに自分を追い詰めることになる気がして、予定通り復帰の道を選んだ。

今から思えば、あんなに悩んだり、苦しんだりしたけど、結局、解決してくれたのは時間だった気がするなぁ。
思い詰めてる時には、そのことしか見えてないし、どんどん迷路を進んでいく感じ。
少し時間が経つと、客観的にみれる。悩んでた自分を外から見れて、認められる気がする。
考えても答えが出せないこともたくさんあるし、なるようにしかならないって思えることも大切と。

だけど、あの時、あんなに悩んだり苦しんだことは、きっと受容ためのステップアップの一歩で、今に続いてるんだと思う。

カミングアウト

再発が疑われて、特に気がかりだったのは家族にどう話すかだった。
家族といっても、結婚してないし、子供もいないので、両親に。

家族関係は複雑ではないけれど、両親はあまり仲良くなく、兄はちょっとだけ問題児?だったので、母は色んな面で苦労してきた。
そして、母はうちが産まれる前に病気で姉を亡くしている。
だから母にどう話すかが頭を悩ます。

母とは休みの日に一緒に出かけたりと仲良し親子だけど、なんでも話せる仲ではなく、今回のことも含めて大事な話はなかなか話せない。

3年前の手術の際に良性腫瘍と説明を受けてるし、まさかその病気がどうにかなるなんて、全く頭になかっただろうし…。

徐々に周りの友達や当時の彼にはその事実を伝えていったけど、やっぱり母と面と向かうと言葉にならず…。

そして、こんな時、一人暮らしでよかったぁと思う。だって、元気がなくても、食欲なくても気にされずにすむから。干渉されるのも苦手だし。
やっぱりあんまり心配はかけたくないしね。

だけど、言わないわけにはいかないので、もともとは彼と行くはずだった旅行を母と行くことに変更した。
彼には申し訳なかったけど、こんな気持ちじゃ旅行も楽しめないし、親孝行しないといけないし。
手術で生死にかかわるわけじゃないけど、もしかしたら、親より先にってことはあるかも知れないって気持ちを持ったのも確か。

で、母を誘ってみると、喜んでのってきた。ちょっと後ろめたさを感じないこともなかったけど…。

湯布院、黒川温泉に2泊3日。
旅行中に言おうと決めてたけど、前日実家に帰った時に、なんでだったか忘れたけど、たぶんそのようなことを聞かれて、カミングアウトした。
「えー、なんでぇ」と、相当ショックを受けていた。そらそうだよね…。
「また出てきたもん、しょうがないやん」と言ってみる。極力悲しい顔はみせずに。
色んな思いが錯綜するけど、この頃にはそういう気持ちも持てるようになってたし、どんなに悲しんでも、考えても「なるようにしかならない」って。開き直りでもあり、前向き?でもある言葉。
カミングアウトできたから、ちょっとすっきり。
温泉旅もそれなりに楽しめた。

大切な人にどう話すのかって難しい。一緒に悲しみをわかちあったらよいのか、気丈にふるまうことがよいのか。
自身にとっても、相手にとっても、どうしたら衝撃が少なく、かつ現実を受け止めていけるのか。
これは今も進行形の課題。
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